※だいぶ昔のエントリーです。
とっちらかってまとまらないまま眠っていたものです。
かなり抽象的な記事になると思われるが、思ったままに書く。
たぶん、過去のいつかのblogかWebページで、似たようなことを書いた事があると思われる。
想像の広がる世界観
最初に↑を意識し始めたのは、いつからだったか。
少なくともそれは、マリオブラザーズでは無かったし、スーパーマリオでもなく、ファンタシースターIIでもなく、ゲームとしては大好きなバトルシティでもなかった。太古の記憶によると、自分が小さい頃に「そう思えた」ゲームは、ドラクエIII、ゲームボーイウォーズ、MOTHER、Sa・Ga1~3、Wizardryということになっている。
もちろん、これら以外がいわゆる神ゲーではない、等と述べたい訳ではない。今回取り上げるゲーム達は必ずしも、傑作とは限らない。中にはクソゲーの域に片足を突っ込んでいるものもあるだろう。今回書きたかったのはゲームの優劣ではなく、映像、音、そして操作が時に偶発的に、時に計算高く織りなす、頭の中に描かれる壮大な世界のことである。ドラクエなんかはその最右翼だろう。わざわざ自分が書くまでもなく、緻密に作られたフィールド、ダンジョンとストーリーに酔いしれたかたは星の数ほどおいでである。アリアハンからロマリアに初めて渡るときの緊張感、そこかしこにある建造物の荘厳さ、あるいは、廃墟感。人々の栄枯盛衰が広大なフィールドに描かれたそのゲームは、さすが社会現象にまでなった至高の名作である。昔のゲームは現在と違い映像も音楽も抽象的だった。貧弱なグラフィックも音楽も、想像で補うことによってイメージが完成するところが多かった。ドラクエもそうだったし、音楽の作りがかなり優秀だったMOTHER初代やメタルマックスなんかもそうだったし、Wizardryシリーズなんかはその極致だったと思える。この頃のゲームはほぼ、パネルないしは何かしらのパターンで区切られたフィールドを持ち、ファンタシースターシリーズみたいなのを除けば、2頭身のキャラクターが1パネル分の面積で描かれ、そのフィールドを闊歩するスタイルでゲームがデザインされていた。ROM容量の制約など、色々あったとは思うが、フィールドがパネルで区分けされていたことは悪いことではなかったと思う。1つは作る側がシステム化しやすく、コストを抑制できたことと、もう1つはユーザーエディットという概念を生み出すことが出来たことが挙げられる。
個人的に人生最初にどっぷりハマったシミュレーションゲームが任天堂の「ゲームボーイウォーズ」だったのだが、このゲームの初代は敵勢力との戦闘結果には乱数による”ブレ”の概念がなく、同一地形上での同一戦力の結果は常に同じ結果を出すという仕様であった。「戦闘工兵で森の地形から装甲車に仕掛けたら、相手をどの程度削れて自分がどの程度削られるか」ということが戦闘を仕掛ける前から判る、という具合にである。ダメージの概念も至極単純なロジックが採用されており、「破壊される=1体減る」と、「損傷する=0.5減り、次回損傷時に破壊される」の2パターンしかない。このことにより、ゲームボーイウォーズ(少なくとも初代はそうだった)は、兵器を生産し、相手の首都を陥落させるまで、その気になればだいぶ先のところまで結果をシミュレートさせる、早い話が、先を読むことが出来る作りだったんである。この仕様のおかげで、遊ぶ側としては1ターン1ターンの局地戦のスリル、というよりも、勝利までに何をするか、を思い浮かべながら遊ぶことが出来た(もちろん、そうしなくてもプレイは出来た)。その結果として、戦闘に赴くフィールドを強く意識し、どのように守り、進軍するかを考える頻度が高くなった。このゲームの後半ステージとなる”Special Map”からは広大なマップも多く、拠点から伸びる長大な道路、行く手をふさぐ森林、山岳、そして海、と、ただのパネルで作られているゲーム上のフィールドに並々ならぬロマンを覚えていたのをよく覚えている。ひょっとしたら、ただのHEXマップ好きだったのかも知れない。が、製作者が丹念に作ったであろうフィールドを眺め、それを遊ぶことで頭に壮大な景色が浮かび、BGMとの相乗効果で忘れがたい魅力の世界観を感じ取ることが出来たのは確かである。(ゲームボーイウォーズ初代は、パッケージや取説に出てくるキャラクターのデザインも良かった)このシリーズの新作がリリースされなくなって久しいが、ぜひまたHEXマップのシリーズを出して欲しいと切に願う。
自分自身のシミュレーションゲーム好きは、のちにセガのメガドライブ向けにリリースされた「アドバンスド大戦略」でピークを迎えた。このゲームは、分岐ありのシナリオに沿って戦線を戦い抜く”キャンペーンモード”が売りだった。兵器の経験値の概念、それを使用した進化・改良の概念により、配下兵器への思い入れがより強まった上、勝敗によって次の戦地が変わり、転戦を続ける。それも、世界を股に掛けて。燃えないはずがなかった!
裏技ではあったが、ユーザーが自分でマップを編集し、自由にルールを決めて遊べるエディットモードも用意されていた。他人と共有しないまでも、自分自身のオリジナルマップ(地元、近所、ないしはどこかの地域を模したり、完全オリジナルだったり)を作り、遊んだプレイヤーは多かったものと思っている。この頃はいわゆるパソコン通信の時代であり、このゲームもメガモデムという機器による通信でやりとりできたようだが、ついにそれを試す機会は個人的にはなかった。メガモデム本体は、地元のおもちゃ屋で一度だけ見掛けたんだがなぁ。
Wizardry・・・いわゆる、クラシックWiz・・・の魅力については、恐らくは様々なWebページで熱く語られていると推測するが、このシリーズの最大の魅力ポイントも、個人的には上述のゲームボーイウォーズと同じだった。つまらない言い方をすればただの迷宮探索RPGなのだが、このゲームには沢山のドラマ、おそらく製作者にも予測できないドラマがあった。それも、プログラム中で使用されるただの擬似乱数によって、だ。この手のダンジョンRPGは全てそうだと思うが、「先に進まないと始まらない」というのと、「調子に乗って進むと、手強いモンスターに狩り殺される」の相反する要素に惑わされ続ける事が基本的な楽しみなのだと思う。Wizはそれをとてもシンプルに教えてくれた。呪文の使用回数が残りわずかの状態で、しかし先には何かがありそうで、もう少し進めば戦果が得られそう。この目の前の扉を開けるべきか、引き返すべきか・・・ダンジョンRPGが根強い人気を誇るのはこうしたスリルが、迷宮という狭い迷路のあちこちで得られるからである。その結果、凶悪なモンスターやトラップにより、哀れパーティが全滅することも多々あった。Wizの場合はその場でパーティ全員の遺体が放置され、多くの場合はアイテムのいくつかが失われ、金銭も失われ、最悪の場合、復活不能=ロストになる事もあった。これは、「パーティメンバーが倒れても教会に行けば何とかなる」と教わった多くのドラクエプレイヤーにとっては衝撃だったと思う。そもそも、ドラクエIIIも影響を受けた、海外ゲームの「キャラクターを自由に作成出来る」という要素は日本人にとっては斬新だったはずだ。人間ドラマはゲーム上に用意されているわけではなく、自分で名前を付け、性別や職業やパラメーターを決め、主人公(居ると決めたなら)と長い時間行動を共にする。場合により、新たな出会いや別れが起こる。そうした、当時としては新鮮だった自由なキャラクタークリエイトにより作られたパーティメンバーは、Lvが上がり育つほど、プレイヤーにとって思い入れの強い存在になっていたはずである。そのパーティメンバーがダンジョン深部で倒れ、遺体となって転がっている・・・それはもう、ショックと焦り以外の何者でもない。アイテムはまだ良い、ダンジョンを徘徊しまくればそのうちまた手元に戻ってくる。しかしキャラクターはそうはいかない。それは、プレイヤーの費やしてきた時間と体験そのものだからだ。それらはいずれも、戻ってはこない。多くのプレイヤーは、思い入れのあるパーティメンバーを失いたいとは思っていない。が、このドラマをかみしめることを喜びとするプレイヤーは、得られた結果をリセットでひっくり返そうとはしなかったのである。パーティが失われ、救出部隊の育成が遅れ、気がつけば6名中、2、3名が消え去っていた・・・あるいは、救出隊も壊滅させられ、再度たどり着くまでに莫大な時間がかかった・・・そんなことがあっても、それはその結果として受け止めてロールプレイすることに徹するプレイヤーだって居たんである。ゆえに、リセットが容易になったあとも、ダンジョン中の保存が効かない”マニアモード”なるモードを、ASCIIはわざわざ用意してくれていたのだろう。
元々WizはApple II向けに作られた海外のPCゲームだったが、主にASCIIによって国産化が行われ、その際に魅力的かつ洗練されたデザインへのリファインと、BGMの追加が行われた。ひょっとしたらBGMはコアなプレイヤーにとっては蛇足だったかも知れない。しかし、BGMとは雰囲気作りの一助となる存在で、ハマりさえすれば優れた伝達手段だ。個人的には、プレイヤーを引き込む要素としては国産WizのBGMは優秀な部類だったと考えている。ひょっとしたらそれは、原作者にとっては意図しないファンタジー路線の解釈だったのかも知れないが、自分にとってはこれが結果的には最高に作用した、と思っている。
主にSLGとダンジョンRPGを例に挙げたが、個人的な考えについていえば、ゲームの面白さのコアはあくまでも、”面白い!!”という流れで遊ばせてくれるロジックにあるのであって、見た目のグラフィックやサウンド、ましてや声優の音声などはおまけに過ぎないのだと思っている。この期に及んで高精細グラフィックに拘泥するエセゲーマーは、自分のお気に入りのジャンルのハイレゾなモデリング(彼らが好むロボットもの、量産型美少女キャラクター、etc)でも作って一日中眺めていたら良いのではないか、と今でも思っている。
まずゲームが面白い、夢中にさせてくれる。絵柄や音はその次なのであり、グラフィックが甘い=クソゲー では断じてないのだ。
◆グラフィックと表現の進化
1990年代が進むと、メガドライブやスーパーファミコンのグラフィックもROM容量の拡大に伴い進化を続け、サターン、プレイステーションの登場により32bitプロセッサの表現力を全面に押し出したゲームも登場した。この頃は、グラフィックや音源、処理速度の進化が大変ドラスティックだったため、プレイヤーに大きな衝撃を与えることが多かったと思う。スーパーファミコンの場合はまず、アクトレイザーのオーケストラBGMにショックを受け、聖剣伝説2のグラフィックに感動し、FFVの曲の良さに感心した。FFVIのグラフィックが初公開となった時は、「ゲーム機でここまで美しいグラフィックが出せるようになったのか!」と、とても驚いた事を覚えている(確か1994年くらい?)スーパーファミコンの持つ高い乗算性能は、拡大縮小による擬似3Dマップの表現を可能とし、高い臨場感を持たせることに成功した。PCM音源によるサンプリングの普及は、もはやゲーム音楽を作るのにPSGやらFMやらのサウンドチップを使いこなす職人芸のプログラマーを必要とせず、普通に音楽を作るのと同じプロセスで音を出せるようになった事を意味した(サンプリングに至るまでの技術は別として)。まだこの時期のゲームは非常にゲームらしい作りではあったが、よりドラマティックに、かつアーティスティックに進化していたのだと思っている。この時期に心底その世界観にハマったゲームは数多いし、人により意見がとんでもなくバラバラになるとは思うが、いくつか思い出してみようと思う。
『伝説のオウガバトル』
自分の中では、恐らくスーパーファミコンのゲームで最も好きなシリーズのため、多分に贔屓目が入っているかも知れない。クエストという会社が当時、社運をかけて世に送り出したとされる、シミュレーションRPGの傑作である。ゲーム開始時にストーリーテラーのような老人が登場するあたり、セガのシャイニング&ザ・ダクネスあたりを彷彿とさせるが、この「伝説のオウガバトル」は徹底して、プレイヤーの選択に応じたキャラクターのストーリーを提供してくれる。意図したものではないと思うが、そのシャイニングシリーズと同様にこのゲームも、主人公=あなた と明確に定義し、選択だけでなくプレイスタイルに応じた(本当に、色々な)結末を迎える点が後続の「タクティクス オウガ」と異なる。
この「伝説のオウガバトル」最大の魅力は、緻密に考え抜かれたブレない世界観と、ストーリーを、スーパーファミコンならではの美しいグラフィックとサウンドで楽しめた点にある。時代設定は神話の時代か?と言えなくもないレベルには徹底されたファンタジー、その世界観に在るキャラクターたちが活き活きと動き回り、時にイベントで熱い(暑い)ことを語り、ぶつかり合う。まさしくドラマである。この、優れた小説を読むかのような文学面での魅力と、"戦いに没入し過ぎると暗黒面に墜ちる"という足かせのついた絶妙なゲームシステムと、良く作り込まれた、頬のゆるむほど感心するバトルシステムによって、このゲーム及びシリーズはコアなSRPG ファンを中心に熱烈な支持を得たのだと思っている。かつて焼き討ちに遭いアンデッドの徘徊する森と化したエリア、有翼人や飛竜のいる空中エリア、天使や悪魔の居るエリア、様々な変化に富んだマップでの進軍は最高にそそられた。お恥ずかしながら、このシリーズには大変のめり込み、Webページを作って似非ファンページを作るくらいのことはしていた。まだ、FireFoxやChromeなんか無かった頃の話である。今からするとキモいな、とも思うのだが、無謀にも小説のようなものを書いていたこともある。そのくらい、このシリーズの世界が広がることを心底望み、好きで居続けた。今でも、続編が出るのならば喜んで当該ハードごと買ってしまうだろう。Switch であっても、PS4であってもだ。
どなたにも、「これさえ出てくれれば、何かを質に入れてでも買う!」という大好き作品があるのだと思っている。
『デビルサマナー ソウルハッカーズ』
32bitハード時代の名作RPGは多いが、個人的にはこのサターンのゲームに、個人的一等賞を進呈したい。操作の全てがスムーズで、シリーズ共通のコアな世界観、洗練されたグラフィックデザイン、それに合わせて作られていた音楽、と文句の付けようがない。これまで支持を得てきたシステムに、見事なセンスの装飾が加わった、画面を見た瞬間から傑作なのが判る、というタイプのゲームだった。今ももてはやされているバーチャルリアリティをテーマにした、時代を先取りした世界観は今遊んでも通用すると思っている。作中のCRTのデカさをのぞけば…。まさしく、ハッカーズの源流である女神転生(Digital Devil Story)だった。未経験のかたにはぜひ、モデル都市天海市で繰り広げられるストーリーと世界観に夢中になっていただきたい。
RPGとして「主人公=あなた」が明確で徹底されていたのは、アトラスとしてもこのあたりまでで、以降はキャラクター性重視の、所謂萌え要素を増していったのは個人的に残念ではあるが、時代がそれを求めるのなら仕方のないことだと思っている。
尻切れトンボだが、つづく。